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2013年2月10日 (日)

「菅源三郎船長」

今日は子供の厄除け祈願のため、今治市菊間町の「やくよけ大師 遍照院」へ。

そして、この機会を利用して、以前から一度訪れてみたかった「瓦のふるさと公園」内にある菅源三郎船長の銅像を見学に行きました。遍照院からもすぐ近くにあります。

昨年、地元愛媛新聞の門欄に投書があり、菅源三郎船長の銅像の存在を知りました。

菅源三郎船長の生涯です。

「氏は、1883年(明治16年)2月24日にこの菊間町に生まれました。商船学校を1908年(明治41年)に卒業し、第二次世界大戦勃発時には長崎丸の船長として揚子江河口にてアメリカの客船プレジデントハリソンを発見し、これを追跡してかく座(船を浅瀬に上げること)させました。しかし、1942年(昭和17年)5月17日に長崎丸は長崎港外で機雷に接触して沈没しました。菅船長は最後まで船橋にあって指揮をとりましたが、死者・行方不明者39名を出してしまいました。事故後も遭難者を慰問し、善後処理に奔走しましたが、自船沈没と乗客乗員殉死の責めを取って壮烈な自決をしました。」

以下は遺言の一部です。

沈没当時は勿論最後まで船橋に踏止まり

船客救助の指揮を為し、一旦船と共に海中に沈みしも


再び浮上がりて心ならずも数日間寿命を借り、

最早諸手続きも済みたる故

かねて覚悟のとほり潔く自決して

御国と会社と殊に又遭難せし人々の

英霊と御遺族の方々にお詫びをする。

もとより船長として当然の処置なり。

お前達のため生きて居てやりたいのは山々だけれども、

それでは我が日本帝国の海員道が立たぬ」


まさしく武士道です。尊敬すべき先人です。

ふと、昨年、イタリア豪華客船沈没事故で船長が乗客より先に避難した事故を思い出しました。この船長に菅源三郎船長の話を聞かせたいと思いました。

かわら館の前に銅像の案内看板が整備されています。

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途中にも看板あり。

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